備忘録

更新は気分、文脈はADHD、というかあまり読ます気はないかもしれない

俺たちは情報を食べていると自覚した

表題はかの有名なラーメン西遊記シリーズに出てくるラーメンハゲ(芹沢)が言っていた言葉だが、感覚的にそれを落とし込めたので随筆とも呼べる雑記として記す。


きっかけは韓国の分子ガストロノミー料理店の動画を見ている時に大量に並ぶ皿たちの上にほぼ寸分違わずマスタードや岩塩、ステーキをよそっていくシーンを見て、工場のようだという悲嘆と料理ってそういうふうに作るもんじゃなくね?という疑念が生まれてしまったことだ。自分が想像する分子ガストロノミーとは一日何組限定で〜、立地も閑静でありながら落ち着いてかつ知る人ぞ知る美食店が並んでて〜という偏見が根付いているため、随分なんとも工業的で身もふたもないような冷たさと大人気なさが存在するなあと思ってしまっているのだ。


もちろん分子ガストロノミー(長いので以下分ガス)だけでなく普通のレストランや町中華、或いは三つ星シェフが在籍する名門レストランにおいても皿洗い専門のような役割の見習いシェフかバイトやらはいるだろう。だが、その動画の分ガス料理店は先程のステーキの皿以外も同じように広いステンレスの作業台に同じ皿を十数枚並べ、同じように盛り付け、料理に対しても専門職のようなシェフを当てているのだ。レストランの厨房という言葉から想像させられるシェフたちが忙しなく動き回り様々な料理を作り上げていく様との対比が凄まじく、軽いショックを受けてしまう。(自分の中で分ガスはまだ知る人ぞ知る高尚かつ高級な料理だという偏見があるのだろうが)


ショックが少し和らいだ時、考えついたのはマクドナルドだった。誰がやっても同じようなバーガーやポテト、サイドメニューが出来上がるようにマニュアル化され、ライン化され分担され……、それこそインダストリアルという響きにふさわしい人工感があるのだ。そこにたどり着くまでに如何なる効率化の努力があるかはもちろん察せられるが、そこには資本力の大きい企業のニオイがしてしまう。自分の反・拝金主義的な悪い部分によって皮肉臭くなっていることも自覚した上で言わせてもらうが、有名シェフや、腰が曲がっても中華鍋を振り続けるおじいさん中華料理人など想像できる人々が作っている調理風景を思い浮かべながら料理を食べる方が味気あるものな気がしてならない。


だって工場みたいにライン管理させられて流れてきた料理を食べるなんて、なんか餌みたいじゃん。いや、そういうチェーン店とか工場から送られた料理を温めるだけの手抜き居酒屋みたいなとこでも食べてるんだけど。


あと件の分ガス料理店に対して思うのは、分ガス料理自体が映えるビジュアルである為にそこに集まる料理の前には必ず写真を撮るような、インフルエンサーや憧れのあの人が食べたから行ってみたいと思うような人々たちの心理を狡猾に利用しているとも、流行っているから稼げるうちに効率的にバンバカ稼ごうという下心が透けているとも、なんとも居心地の悪い邪推を浮かべてしまう。もちろんその二者の間には需要と供給があり、管理されたラインにより作られた料理でも満足できる大らかな人々がいることも、その人々に水を差すのはそれこそ無粋、不躾だというのもわかっている。結局は自分が"情報に踊らされていると批判されがちな人々"が嫌いだという点に尽きるが。


自分は"映えを気にするという人々"そのものが嫌いという思想の元にライン化された調理風景を厭っているのではないだろうか。自分だってインスタ投稿やツイッターの情報から行ってみた店なんていくらでもある。たとえ他人から共有された情報によって店に足を運ぶというのはインフルエンサーからであろうが、由緒正しきミシュランであろうが、味覚が合う親しき友人であろうが事前情報を元に赴くという点では同じだ。ただそこに交わるニュアンスが異なっていく、それこそ共有元の偏見がそれぞれの店に情報にレッテルを貼るのだ。たとえ同じ店だろうと共有する情報元によってはターゲットとなる層が変わるだろう。


自分のようなサブカルオタクくさいめんどくさい客層に向けた店が新しく増えていることも知っている。ネオ町中華と謳う店の類だ。店にもよるがレトロな感じを彷彿させるピンクのネオンだったり、小綺麗な内装ながらも少し古臭さを演出していたりと個性的な店が多い(あんま行ったことないけど)。こだわりが強いような客やこういう綺麗なだけとは違う個性的な店が好きな自分すごいやろ?と思ってそうな鼻持ちならない客などにウケるだろう。それこそ自分と同じようなサブカルオタクには覿面である。結局は誰もが情報に踊らされているのであり、映えを気にする薄っぺらい人々となんら変わらないのである。


今まで料理店やレストランのもつ属性や売り方からどのような客がターゲットなのか的なことを考えていた。しかしもう一つ考えて欲しいのは料理を食べるシチュエーションである。

自分には餌みたいだと先述したマクドナルド化した料理たちだって楽しく食べていたこともあれば、いかにも映えそうなスイーツを恋人食べに行った経験だってある。(というか逆に少し古臭く、小汚いけれど美味しいみたいな店には一人で行く気もする。)


食べている時に楽しいと思えていれば美味しいとも思えるという経験はちらほらある。この事実から考えると、結局は幸福感を感じる際に発せられる脳内の神経伝達物質であるエンドルフィンが出てるかどうかなのではないか。美味しい料理を食べて出るエンドルフィンと親しい人や仲が良いパートナーとコミュニケーションを取る時にでるエンドルフィンの区別は恐らく我々にはつかない。


インスタグラマー・ワナビーが映える料理の写真を投稿した後に出るエンドルフィンと、サブカルオタクがツボをクリティカルに抑えた店で一杯目のビールを飲んだ時のエンドルフィンと、世界で5本の指に入る三つ星シェフの料理を食べた時のエンドルフィンは等しく人を幸福に満ちさせ、興奮に導く。そのことを考えるとエンドルフィンを出すために邪魔しない程度の料理の質であれば、あとはターゲットを絞ったテーマを持てばその店は客のエンドルフィンを操れるだろう。情報で飯を美味いと言わすことが可能になる。

これこそが情報を食べているということだ。


別に情報に踊らされようがいまいが、幸福感を得れて、満足できるなら人生を十分楽しめるだろう。でも俺はそんな情報に踊らされないぞなどと意気込むタイプの読者諸賢に知ってほしいが、踊らされない人間はこの世にいない。多少なりとも情報に流されて生きているのが社会に生きる人間なのだから。それでも諦めないというなら精々味覚を耕し、舌を肥やせばいい。今まで笑顔で食べれていた料理を微妙な顔して美味しいねと愛想を尽くす必要が生まれるだろうが私は責任を持たない。美食に金をかけれるだとか料理人など料理を生業にしてるならば別だが、そうでなければラーメンハゲの劣化版人間に生まれ変わる可能性が高いだろう。

キリンジがわからない

テスト2週間前の深夜、全曲ランダムで流れてきたエイリアンズを聴いて泣き濡れた。


なんとなくappleからオススメされたからライブラリに入れてただけの存在があまりにも心を潤してくれた。その事実があまりにも新鮮で、ここぞという言葉が見つからないでいた。


なんだろうか、棚からぼた餅?藪から蛇??晴天の霹靂???


わからない。ただ、悩み事を抱えた時に友達の何気ない発言で答えを得た時とかも同じ感覚を味わった覚えがある。カタルシスを感じるような鬱積なんてなかったはずだが、とてもじゃないがそれは筆舌に尽くしがたい感覚だった。

こういう経験を、大事にしていきたい。




閑話休題


2番サビに入る前あたりで「日中だったら絶対聴かないな」とふと思った。まだ20歳の若輩だからか、メロウな曲調に憧れは抱くもののこれこそが自分の好みだというふうにはならなかった。

いやまあ女の子連れ込んだ時のBGMで聴いたり、入眠用の音楽で聴いたりだとかはするけど、用がなければ触らない。そんな距離感のジャンルだ。lo-fi hiphopとかそんな軽いスロウテンポじゃなく含蓄があると感じさせてくれるようなそんなメロウ。


正直言って、こういう曲は聴いててテンポがトロいだとか、もっとテンション高く行けよだとか粗雑な感想を抱くこともある。

だが、ただ若さから来る落ち着きのなさだけじゃなく、シワが刻まれるような逡巡やら苦悩だとかをまだ経験し足りないからということもキリンジを聴き慣れない理由なのかもしれない。

それとも『まだこんなオッサンたちが作ってる曲に聴き惚れるほど俺は老けてねえぞ』という反抗心的なものだろうか。


どちらにせよ俺はまだ子供だなあと思いながら、テスト勉強をしないまま40分が経ってしまっていた。